刀祖元重の碑
[2014年3月25日]
ID:1533
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関に刀鍛冶が発祥したのは鎌倉時代のことになります。伝えによれば、寛喜元年(1229年)伯耆国檜原より元重なる刀匠が関に来て、ここで刀を打ち始めたのがそもそもの発端とか。
当時の関は飛騨連山の窓口で、炉に使う松炭はたやすく得られ、その上鍛刀に欠かせない焼刃土にも良い土があったのです。それに加えて良質の水、長良川と津保川の船の便・・・。刀匠にしてみれば、まことに理想的な条件を備えていたというわけです。
元重を始祖とする関鍛冶が飛躍的に発展したのは、彼の子の金重に負うところが大きかったといわねばなりません。金重は61歳という高齢にもかかわらず、鎌倉の五郎入道正宗に弟子入りし、のちの正宗門下の逸材と称せられた志津三郎兼氏をともなって帰郷します。金重も兼氏も正宗十哲といわれた刀匠。関鍛冶の技術が向上しないわけがありません。
その上、金重は出身地の大和から娘婿の包永(かねなが)をよびよせて作刀にあたらせたのです。包永は後に兼永と改名しますが、その子の兼光から子孫が分かれて関鍛冶七流が誕生し、「関は千軒鍛冶屋が名所、鍛冶屋がなければこりゃ山家」と、その繁栄を謳歌することになったのでした。
元重の碑は千手院の境内にあります。
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