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    弥勒寺遺跡群へようこそ!〜正倉院〜

    • ID:21311

    ※このページは「弥勒寺遺跡群」現地解説ページです。関市池尻「弥勒寺史跡公園」にある看板の二次元コードからアクセスしている方に向けて解説しています。

    弥勒寺遺跡群 − 弥勒寺官衙遺跡 − 正倉院

    約1300年前のイメージ図〜弥勒寺官衙遺跡・正倉院〜

    ひろまろくん

    奈良時代に、高床式の倉庫群がありました。
    郡に納められた税(稲)を保管した施設です。

    遺跡のポイント

    プロフィール
    遺跡の名前弥勒寺官衙遺跡(みろくじかんがいせき)
    └正倉院区域(しょうそういんくいき)
    時代奈良時代〜平安時代
    役割古代武義郡の郡役所
    (現在の市役所)
    立地東と南は長良川に面し、北に池尻山がある
    南の郡庁院区域より一段高い
    西には仏教寺院(弥勒寺跡)
    遺構(遺跡)の特徴発掘で、総柱建物(高床式倉庫)の柱跡が見つかっています。
    建物は、東西に並んで建っていました。
    建物エリアの背後を囲むように、東西約130mの溝が設けられていました。
    特徴的な出土品倉庫に収められていた稲や、役人の道具などが見つかっています。
    ・炭化米=黒く炭化した米
    ・転用硯=土器等を硯に転用したもの
    ひろまろくん

    武義郡内をつなぐ長良川に近く、水運に長けた立地です。
    倉庫の中の物資を洪水や動物から守るため、郡庁院区域より高い場所に、高床式で造られました。

    「正倉院」はこんな遺跡です。

     今いる場所は、弥勒寺官衙遺跡(弥勒寺東遺跡)正倉院区域です。

     ここには、奈良時代から平安時代にかけて、武義郡の役所の倉庫が建っていました。

     「官衙(かんが)」とは古代の役所のこと、「正倉院」とは大切なものを収める倉庫=「正倉」が集まった場所のことです。ここには、税である「租(稲)」が収められていました。発掘調査では、米(炭化米)が大量に見つかっています。

     広場にある丸太の柱は、発掘調査で柱跡が見つかった場所に立っています。柱は、建物内部にも規則正しく並んでいました。このことから、高床式の倉庫であったこと、収めたものの重さに耐えられるよう、床を支える柱があったことが分かります。今いる場所から後ろを振り返ると、一段下がったエリア(郡庁院区域)の丸太は、建物の外周にしかありません。柱の並びは、建物の構造の違いを示しています。

     また、ここでは正倉が、横一列に並んだ状態で見つかっています。前面は郡庁院に面していますが、背後と東西には建物群を囲むようにコの字状の溝があり、正倉院を区分けしていたことが分かります。

    三段階の「正倉院」

     発掘調査をすると、同じ場所からいくつかの遺跡・遺構が重なって見つかることがあります。ここでも、何度か建物が建て替えられた形跡が見つかっていて、正倉院としては3つの時期にわかれています。

     一番古い時期(1期)は、掘立柱建物が9棟並んでいたようです。今、丸太が立っているところは、この時期の建物を表しています。建物の柱は三間×三間と三間×四間があり、校倉造りと板倉造りが混在していたようです。校倉造りは、木材を横向きに積み重ねて壁を作る工法、板倉造りは板材を立てて壁を作る工法です。(イメージ図で手前にあるのが校倉造りの正倉です)

     掘立柱建物とは、地面に直接木の柱を立てて造る建物です。柱が自立しやすいため建てることは比較的容易ですが、木は土に埋まっていると傷みやすく長持ちしません。建物を長く使えるものにするため、次の時期(2期)には、地面に石を置いてその上に柱を設置する礎石建物に建て替えられています。礎石建物は、現在も寺院などで見られる構造です。

     3期は2期と同じく礎石建物ですが、1期の倍もあるような大きな倉庫が造られます。礎石建物は柱の上部の組物で建物の構造を支える必要があるため、時代が進むとともに建築技術が向上した様子がうかがえます。また、土を盛って基壇を造るなど、地盤を強化した形跡もみられます。

    「弥勒寺遺跡群」の全体像

    現在地

    弥勒寺遺跡群は、東と南を長良川に、北を池尻山に面して、東西800メートルほどの範囲にまとまっています。
     
    <★現在地>が、二次元コードの設置場所です。

     弥勒寺遺跡群には、弥勒寺官衙遺跡<現在地>、弥勒寺跡、弥勒寺西遺跡、池尻大塚古墳の4つの遺跡があり、それぞれ別の役割を持っています。

    • 弥勒寺官衙遺跡(みろくじかんがいせき)=古代の郡役所の遺跡
    • 弥勒寺跡(みろくじあと)=飛鳥時代につくられた寺院の遺跡
    • 弥勒寺西遺跡(みろくじにしいせき)=古代の祭祀(さいし)の遺跡
    • 池尻大塚古墳(いけじりおおつかこふん)=古墳時代後期の古墳

     弥勒寺遺跡群がある関市池尻は、今から約1300年前の奈良時代から平安時代にかけて、美濃国武義郡の政治の中心地でした。奈良時代は、日本で「政治」が始まった時代です。中央の天皇のもと、各地に国・郡が置かれました。美濃国は現在の岐阜県美濃地方、武義郡は現在の関市、美濃市、郡上市(9世紀半ばに郡上郡ができるまで)のあたりです。

     弥勒寺遺跡群は、地方政治の中枢である役所と、政治と関わりの深かった仏教寺院、日本古来の儀式を営む場が、東西に並んで発見されています。さらに、武義郡の成立に関わった「ムゲツ」一族の先祖のお墓もあり、この時代の地方の遺跡がまとまって残る貴重な遺跡群です。

    ▼遺跡群年表▼

    年表

    ひろまろくんの「正倉院」Q&A

    ひろまろくん

    弥勒寺遺跡群イメージキャラクター「ひろまろくん」

    古代武義郡で働く役人をイメージしたキャラクターです。
    弥勒寺西遺跡で出土した土器に墨で書かれた「廣万呂」にちなんで名付けられました。

    「正倉院」には宝ものが入っているの?

    ひろまろくん

    ここの正倉院には「稲(米)」が入っていました。

     「正倉院」の「正倉」は大切なものを収める倉庫、「院」は建物が集まった場所のことを言います。

     「正倉院」と聞くと、奈良時代の宝物が収められた「東大寺正倉院」を思い浮かべる人が多いと思いますが、「正倉」は寺院だけでなく役所にもあり、税などの重要な品が収められていました。建物が現代まで残っている「東大寺正倉院」とは違い、地中の遺跡から見つかるものは限られています。弥勒寺官衙遺跡では、遺跡から米(炭化米)が見つかっているため、ここの正倉には、政治を行う資源となる税の「租(稲)」が保管されていたことが分かっています。

    お米はどんなふうに見つかるの?

    ひろまろくん

    地中で「炭化」した状態で見つかりました。

     発掘調査中、黒く炭のような状態の米が、層になって見つかりました。厚いところでは、30cmほどの米の層がありました。粒の状態から考えると、米粒をまとめた米俵ではなく、稲穂の状態で正倉に収められていたようです。

     炭化米は全国各地で見つかっていますが、米が黒く炭のようになる原因は、まだはっきりと分かっていません。火災などで焼けた可能性と、1000年以上地中にあったために化学変化した可能性が考えられています。

    芝生の中に立っている丸太は何のため?

    ひろまろくん

    丸太の柱は、昔の建物の柱があった場所に立っています。柱の近くで、大きさや建物を想像してみてください。

     発掘調査では、東西に並んだ正倉(倉庫)の柱の痕跡が見つかりました。現在丸太柱が立っている場所は、役所ができた頃(1期)の正倉の建物の柱の位置です。正倉は、現在舗装してあるところにも並んでいて、正倉院の後ろをコの字状に囲む溝は、左手の休憩所の前まで続いていました。

     休憩所のあたりから正倉院を見ると、建物の前面の柱が一列に並んでいることが分かります。当時の技術を駆使して、計画的に配置されたのでしょう。

    (現在立っている丸太柱はコンクリート製ですので、座っても大丈夫です。)

    さらにくわしく知りたい方へ

    お問い合わせ

    関市協働推進部 文化課

    文化財保護センター

    〒501-2695 岐阜県関市

    武芸川町八幡1446番地1

    (武芸川事務所2階)

    電話:0575-45-0500

    ファクス:0575-46-1221


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