弥勒寺遺跡群へようこそ!〜弥勒寺跡〜
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※このページは「弥勒寺遺跡群」現地解説ページです。関市池尻「弥勒寺史跡公園」にある看板の二次元コードからアクセスしている方に向けて解説しています。
弥勒寺遺跡群 − 弥勒寺跡

約1300年前のイメージ図〜弥勒寺跡〜

飛鳥時代に創建されたお寺です。
東に塔、西に金堂、正面に講堂がありました。
屋根は瓦葺きだったことが分かっています。
遺跡のポイント
| 遺跡の名前 | 弥勒寺跡(みろくじあと) |
| 時代 | 飛鳥時代/白鳳時代 |
| 役割 | 仏教寺院 ムゲツ氏の氏寺、のちに武義郡の郡寺 |
| 立地 | 長良川に面し、背後には池尻山がある 東に郡役所(弥勒寺官衙遺跡) 西に水の祭祀の場(弥勒寺西遺跡) |
| 遺構(遺跡)の特徴 | 建物の柱を支えた礎石と基壇の一部が地表に残っています。 ・法起寺(奈良県)式の伽藍配置 ・塔の基壇は12.2m四方 ・金堂の基壇は東西14.8m×南北12.4m |
| 特徴的な出土品 | 仏教寺院だったことを示すものが出土しています。 ・複弁蓮花文軒丸瓦などの瓦(川原寺式) ・螺髪=仏像(塑像)の頭髪 |

東に塔、西に金堂、正面に講堂が建つ伽藍配置は、奈良の法起寺と同じです。
瓦は、天武天皇にゆかりのある川原寺(奈良)の技法をならっています。
当時の都である大和(現在の奈良県)から、技術や技術者が伝わって、立派なお寺が建てられました。
「弥勒寺跡」はこんな遺跡です。
今いる場所は、弥勒寺跡です。
ここは、飛鳥時代に仏教寺院が建てられた場所です。看板の前に立つと、左右に、石を前面に立てた土台(基壇)があります。左(西)の基壇の上には、仏像をおさめた「金堂」があり、右(東)の基壇には、「塔」が建てられていました。正面には「講堂」がありました。この建物の配置は、奈良の法起寺と同じで、法起寺式伽藍配置と呼ばれています。法起寺は法隆寺の近くにある同じ時代の寺院で、法隆寺とは塔と金堂の位置が逆になっています。
弥勒寺跡では、発掘調査で瓦が見つかっています。軒丸瓦、軒平瓦、平瓦があり、建物は瓦葺きだったことが分かります。瓦の文様やできあがりの特徴からは、奈良の川原寺と同じ系統の技術が見てとれます。
6世紀なかばに大陸から伝来した仏教は、都を中心に日本の国内に広がっていきました。瓦を作ったり、寺院建物や土台を作る高度な技術も、都からこの地に伝えられたと考えられます。
「身毛君広」の功績と氏寺建立
672年、天智天皇の後継をめぐって「壬申の乱」が起こりました。この戦乱は、天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子が争ったものです。最終的に大海人皇子が勝利し、天皇に即位しました(天武天皇)。
大海人皇子はその戦で、敵方への東国からの援軍を防ぐため、美濃国の豪族に不破関の閉鎖を命じました。その豪族の一人に、「身毛君広(むげつきみひろ)」という人物がいます。「むげ」の名のとおり、のちに「武義郡」となる地を治めていた豪族です。身毛君広は壬申の乱での功績から、当時は数少なかった仏教寺院の創建をゆるされ、この地に古代の「弥勒寺」を造ったと考えられています。弥勒寺跡で見つかっている「複弁蓮華文軒丸瓦」「凸面布地平瓦」などは、天武天皇ゆかりの川原寺式の技術が使われています。
「弥勒寺遺跡群」の全体像
弥勒寺遺跡群には、弥勒寺官衙遺跡、弥勒寺跡<現在地>、弥勒寺西遺跡、池尻大塚古墳の4つの遺跡があり、それぞれ別の役割を持っています。
- 弥勒寺官衙遺跡(みろくじかんがいせき)=古代の郡役所の遺跡
- 弥勒寺跡(みろくじあと)=飛鳥時代につくられた寺院の遺跡
- 弥勒寺西遺跡(みろくじにしいせき)=古代の祭祀(さいし)の遺跡
- 池尻大塚古墳(いけじりおおつかこふん)=古墳時代後期の古墳
弥勒寺遺跡群がある関市池尻は、今から約1300年前の奈良時代から平安時代にかけて、美濃国武義郡の政治の中心地でした。奈良時代は、日本で「政治」が始まった時代です。中央の天皇のもと、各地に国・郡が置かれました。美濃国は現在の岐阜県美濃地方、武義郡は現在の関市、美濃市、郡上市(9世紀半ばに郡上郡ができるまで)のあたりです。
弥勒寺遺跡群は、地方政治の中枢である役所と、政治と関わりの深かった仏教寺院、日本古来の儀式を営む場が、東西に並んで発見されています。さらに、武義郡の成立に関わった「ムゲツ」一族の先祖のお墓もあり、この時代の地方の遺跡がまとまって残る貴重な遺跡群です。
▼遺跡群年表▼
ひろまろくんの「弥勒寺跡」Q&A

弥勒寺遺跡群イメージキャラクター「ひろまろくん」
古代武義郡で働く役人をイメージしたキャラクターです。
弥勒寺西遺跡で出土した土器に墨で書かれた「廣万呂」にちなんで名付けられました。
「礎石」は本物なの?

「塔」と「金堂」の基壇の上の、平たくて大きな石は、昔のお寺に使われていた本物の礎石です。礎石とは、建物の基礎となる石で、柱を支える役割を担っています。
塔の礎石は13個のうち5個、金堂では、身舎を支えた10個のうち6個と、廂のうち4個の礎石が、基壇の上の地表に残っています。
礎石はどれも巨大ですが、そのなかでも特に、塔の中心の柱を支える「塔心礎」は巨大です。塔心礎には柱のためのくぼみと、その中心に舎利孔と呼ばれる小さな穴があります。舎利孔とは、もともと仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるところですが、日本では水晶や金糸などの宝物を納めていたようです。ここでは、納めていたものは見つかっていません。
本物以外の礎石もあるの?

礎石と等間隔に並んでいる楕円形の石は、昭和の整備のときに置かれたものです。
弥勒寺跡は、昭和34(1959)年に国の史跡に指定されたあと、調査をおこなった古代寺院の研究者・石田茂作さんの指導を受けて、昭和37年に「史跡整備」をおこないました。そのときに、残っていないけれど礎石があったと考えられる位置に、楕円形の川原石を置いて、建物の柱の位置がわかるようにしました。本物の礎石と区別がつくように、あえて違う形の石で復元表示しています。
また、塔の中心にある塔心礎の周囲に4個の川原石がありますが、これは四点柱をあらわしています。四点柱は、昭和37年当時の研究で存在すると考えられていた部材で、最新の研究では四点柱はなかったといわれています。研究の積み重ねにより見解が変わってきましたが、70年以上前の先進的な史跡整備の歴史と遺構保護のため、平成の整備では撤去せずに現状維持としました。
建物の土台はどうなっているの?

瓦葺きの重い建物を支えるために、土を積み重ねて頑丈な土台(基壇)をつくっていました。
東西に並ぶ金堂と塔は、同じ高さの基壇に建てられました。もともとの地形では西(金堂)が高かった場所で、整地して同じ高さにするために、塔の基壇は「版築」という工法で頑丈に積み上げられています。「版築」は、種類の違う土を叩いて固めながら交互に土台を積む工法で、日本でも古墳時代から用いられていました。
発掘調査では当時の瓦が見つかっていますが、現在の瓦よりも重く、瓦葺きの建物を支える基壇はかなりの重量に耐えるつくりでなければなりませんでした。
さらにくわしく知りたい方へ
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