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関市
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各市町村の名称由来

[2013年3月27日]

ID:1431

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関市

 鎌倉時代後半になると、経済が一段と発展し、交通量も増大してくる。現在の関市区域は、東山道の枝路飛騨街道、東山道の別道木曽川西古道、尾張からの郡上への道など、日本海や東国と結ぶ重要な街道の交差点に位置していて、交通の要衝であった。ここに関が設置され、それがもとで関と呼ばれるようになったと思われる。関所の位置は、小字「小瀬木」という字が存在する一ツ山常光寺の前の道にあったとされている。確実な文献のうえで、初めて関という地名がでてくるのは、鎌倉後期になってからである。(関市史参照)

美濃市

 美濃市の美濃の由来は、江戸時代の上有知村(こうづちむら)が明治44年に美濃町と改称したことに始まる。その理由は、呼称及び字体が、中、下有知と誤り易く、商取引上不便が多かったためである。その名の選定理由は、美濃紙の集散地として著名であったことによる。(美濃市史参照)

洞戸村

  洞戸郷は、1619~1871の廃藩置県まで尾張藩の所領であった。このことから今から約380年前に洞戸という地名は存在していた。当時の文献は無いが、越前街道の行路であり、また炭、木材等を取り扱う商人が多く存在していたことを考えると山深く(洞)入る一歩手前の玄関口(戸口)ではないかと予想される。(洞戸村からの資料)

板取村

 定説は確認できないが、村の総面積の約98%が山林であり、「木地師」と呼ばれる人たちもいたほど昔から林業が盛んな村である。このため、板が多く取(採)れることから、板取と呼ばれるようになった。
 一方、植物の「虎杖(いたどり)」から由来しているとの説も根強いものがある。そのため、両説を取り入れて、虎杖(いたどり)から板取へと変化したものと推測される。(板取村からの資料)

武芸川町

 成務天皇(西暦前131年~)の時代に三野前国(みのくちのくに)(西濃あたり)・三野後国(みのしりのくに)(東濃あたり)牟義都国(むぎつのくに)(武芸国)・斐陀国(ひだのくに)等の用字がある。また、この地方が大和朝廷の支配化に服属するようになると、各地方の豪族は、大和朝廷の地方官ともいうべき「国造」や「県主」に任命された。この牟義都国造がどこの地方を領域していたかは明らかではないが、関市・美濃市・武儀郡とその周辺を支配下にしていたことは、ほぼ間違いないといえよう。また、牟義都国造を支配していた氏族名は身毛津君(むげつきみ)であったことから国の名「むぎつ・むげ」、氏族名「むげつ」からの由来ではないかと思われる。(武芸川町史参照)

武儀町

 武儀村合併申請書の名称選定の理由によると、合併関係村が所属する武儀郡は明治22年町村制施行以来29ヶ町村を数える大郡であって、岐阜県のほぼ中央に位し、その名も上古より「牟義」に始まり、次代「務義」が「武儀」と改名したと伝えられる由緒ある郡である。津保谷3ヶ村(富之保、中之保、下之保)が郡内はじめの新設合併村を実現することになったので、これを記念すると共に、武儀郡の幾多の歴史と伝統を継承しここに「武儀村」と命名した。(武儀村合併申請書より)

上之保村

 明治6年に江戸時代の上之保上村下村を分離し、上村は上之保村、下村は富之保村(現武儀町)として独立させ、現在に至っている。
上之保、中之保、下之保のような「保」については、中国の隣保制の単位で一定戸数で組織され、互いに連帯性をもつもので、奈良時代の律令制の下で使われるようになった。
 「保」は行政組織の「郷」「里」の下部単位で、5戸を1単位として「保」とし、保長(保司)が置かれ、貢租、徴税、防犯徹底、浮浪逃亡防止など、相互に援助や監視を行うようになっていた。
 平安時代以後は国衙領の小集団に使われ、上保、中保、下保と分けられ、蓆田郡(本巣郡)郡上郡にも地名として残っている。
 津保においても、『濃陽志略』や『濃州徇行記』に上ノ保村、中ノ保村、下ノ保村が明記されている。(上之保村史参照)

お問い合わせ

関市 企画部 企画政策課
電話: 0575-23-6876 ファクス: 0575-23-7744

当時
中濃地域市町村合併検討協議会事務局
電話:(0575)23-9960 Email:chuno-g@atlas.plala.or.jp

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